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日本のエネルギー問題を考える(2)

2011.07.29(15:04) 46

   では前回の続きで、価値基準から検討してみましょう。
 問題を『原発は必要か』としてみます。問題の設定の仕方によって展開や結論は当然変わってきますから、問題をどのように捉えるかは重要ですが、ここではこのような問題設定から考えてみたいと思います。
 
 「原発は必要派」を「イェス」派、「原発は不要派」を「ノー」派と略記します。「イェス」派の価値基準は「日本経済の発展」です。「ノー」派の価値基準はいろいろあると思いますが、一つは「人の生命や生活の安全を護る」であり、これには「我々の子孫に危険な放射能廃棄物をこれ以上残さない」という価値基準も含まれるものとします。

 この「イェス」派と「ノー」派の価値基準の両方を包含した上位の価値基準は見つけられるでしょうか。それを見つけるにはそれぞれのメタコンセプトを探します。(この詳しい方法は拙著『ものづくりの切り札中沢メソッド』(日科技連出版)を参照ください) 「イェス」派の価値基準のメタコンセプトは「物質的に豊かな社会を実現したい」でしょう。「ノー」派のそれは「安心な社会を実現したい」です。「豊か」という概念には物質的のみならず精神的な意味も含まれますし、「安心」という概念も含まれますから、両者を合わせて「豊かな社会を実現したい」となるでしょう。この価値基準を実現することを念頭においてエネルギー問題を考えるのです。このように考えることはの重要さは従来の排他的狭隘な議論を排除して、より建設的な議論ができることにあります。

 それではこの価値基準から外れないようにで原発の是非について考えてみましょう。その場合ミッシー的に(問題を漏れなくダブりなく分析するマッキンゼーの手法)考えるには、豊かさを安全性と経済性に分けて考えればよいでしょう。

 「原発は必要か」という命題の安全性を考えてみます。安全性についてはもう福島の原発事故で危険であることは明らかですね。しかし、それでもより安全に改修し管理すれば大丈夫ではないかという意見があります。この点について考えてみましょう。

 どんなに安全に作ったとしても、予想外の事態は必ず起きます。昔のタイタニック号の沈没にしても、日航ジャンボジェット機の墜落にしてもそうです。どんなに安全に作っても、どんなに細心の管理をしても事故は起きます。起こった事故が我慢できるレベルかどうかはそのシステムが本質的に持っている危険性の大きさに因ります。
古い歴史的事件ですが、タイタニック号事件について振り返ってみましょう。この船はアレキサンダー・カーライルの設計になる当時最先端の技術で作られた絶対安全な(どこかで何度も聞かされた言葉ですね)不沈艦だといわれていました。それが処女航海に出たときに想定外の氷山との接触で沈んでしまいました。たった10秒間ぐらい接触しただけで2時間後に沈んで、1500余名の人命が奪われました。この船に乗っていた設計者カーライルは船と運命を共にしたことで有名ですが、今回の原発事故では建設の当事者が他人事のように平然とマスコミの前に出て説明している姿には納得しかねますね。つまりどんなに技術が進歩しても絶対安全ということはあり得ないのです。技術者の方なら誰しも認める真理です。

 話を戻しますが、同じような事態が今回福島第一原子力発電所で起こりました。当然他の原発でも起こる可能性はあります。このような大惨事が二度と起こらないと仮定しても、使用済み核燃料の問題は残ります。この点に関して検討してみましょう。

 使用済み核燃料という放射性廃棄物を作り続けることは問題ないのでしょうか。使用済み核燃料の最終的処理方法はいまだに確立しておりません。また寿命がきた原発の廃炉処理の仕方も決まっていません。これらの費用は膨大なものになりますが、現在の電気料金にはこれらの費用は含まれていません。したがってこれらの費用を考えると原発は安いという神話は本当は成り立たないのです。(大島堅一著『再生可能エネルギーの政治経済学』(東洋経済)

 ウラン燃料棒が原子炉で核分裂を続けると、放射性廃棄物が生成されるので、ある程度の期間が来ると取り出されます。この使用済み燃料棒から再利用できるウランとプルトニュウムを抽出する作業が「再処理」です。残りの核分裂生成物と、ウランやプルトニウム抽出過程から出る廃液が放射性廃棄物となります。この放射性廃棄物は放射濃度により低レベル放射性廃棄物、高レベル放射性廃棄物に分類されます。つまり大雑把でありますが、ウラン燃料棒を再処理することにより、ウラン、プルトニウム、低レベル放射性廃棄物、高レベル放射性廃棄物の4種類のものが生成されます。

 再処理は一部は東海村で実施されていますが、ほとんどはフランスとイギリスに依存していて、副産物の放射性廃棄物も日本に送り返されてきています。本来は青森県六ケ所村で再処理する予定でしたがトラブル続きでこの施設は2012年まで完成が延期されました。この再処理工場が完成したとしても、日本原燃サービスのデータによると、放射性物質が気体として大気中に、また液体として太平洋に垂れ流すというのです。なんということでしょう。その放出される放射性物質の量は、国際環境NGOのグリンピース・ジャパンの資料によると、大飯原発の一年分の排出量を1日で優に超えてしまいます。これが稼働し続けるということになると恐ろしすぎますね。幸いまだ稼働しておりませんが。

 ウランは原子炉の燃料棒として再利用されるとして、問題は残りの3つです。プルトニウムは耳かき1杯で数万人を殺戮できる毒性があるといわれているだけでなく、数キログラムあれば容易に核兵器が製造できる危険な物質です。テロリストに利用されたら大変なことになります。このプルトニウムを高速増殖炉(もんじゅ)という別の方式の原子炉の燃料として使う計画がありました。これが成功すればプルトニウムが再生産されますので、ウラン資源を100倍以上にも使えるという夢のような話がありました。「ありました」というのは現在ではもんじゅがナトリウム火災で立ち往生して再開の目途が立っておりません。

 高速増殖炉は核暴走が起こりやすいので、福島の軽水炉原発よりも何倍も危険です。世界の先進国が高速増殖炉は危険で技術的に安全な原子炉の開発は不可能であるとして撤退しているのです。では作られたプルトニウムはどうすればよいでしょうか。そこで苦し紛れに(?)考え出されたのが「プルサーマル計画」です。これはウラン燃料のかなりの部分をプルトニウム混合燃料に置き換えて現在ある軽水炉で使おうというのです。この燃料は「MOX」と呼ばれています。こんなことをして大丈夫なのでしょうか。小出裕章氏が「灯油(ウラン燃料)を使うように設計された石油ストーブ(軽水炉)にガソリン(MOX)を注ぎ込むようなものだ」という例えが分かりやすいと思います。詳しい説明は省略しますが、とても危険な代物です。この話には落ちが付いていて、原子力安全委員会(この名称も実態はふさわしくないですね)の原子炉安全専門審査会が、プルサーマル計画について「安全性に問題はない」と承認し、関西電力と東京電力がそれぞれ99年と2000年に、福井県高浜原発4号機と福島第一原発3号機で実施する予定でした。(広瀬隆、藤田裕幸著『原子力発電で本当に私たちが知りたい120の基礎知識』東京書籍) ところがイギリス核燃料公社が検査データを捏造しこの材料が使えなくなり頓挫しているのです。これが動いていたら今の福島でさらに悲惨な事故になっていたかもしれません。現在も使用済み核燃料から作り続けている危険なプルトニウムは用途が決まらず宙に浮いたままなのです。

 次に高レベル放射性廃棄物はどうでしょう。これはガラス固化体とされてキャニスターに収められます。一部は東海村で作られ、ほとんどがイギリスとフランスで処理されてから日本に戻されてきます。こらはまだ発熱するので温度が下がるまで30年から50年冷却しながら保管しなければなりません。これが2003年でまだ890本(内760本が六ヶ所村)しか日本にありませんが、2002年までの使用済み核燃料の数から計算すると、2002年の時点でガラス固化体は16600本になると言われています(計算の前提条件によって人により数値が多少異なります)。六ヶ所村の収容能力は現在1440本です。これが冷却終わった後の最終処分方法は決まっておりません!にもかかわらずこの高レベル放射性廃棄物は作られ続けているのです。

 低レベル放射性廃棄物は200Lのドラム缶に詰めて六ヶ所村の低レベル放射性廃棄物埋蔵センターの地下に埋蔵しています。こちらは300万本の容量があり(それにしても凄い数値ですね)、現時点で180万本ぐらいですからまだ余裕があるようです。

 以上から明らかですが、核燃料の最終処理方法が技術的・政策的に確立していない段階で、現在すでにプルトニウムをはじめ放射性廃棄物があふれ続けてどう処理していいかわからないのに、日本経済に電力が必要だから原発を使い続けろと主張することはあまりにも「ノー天気」な発言だということがお分かりいただけたのではないでしょうか。よく言われるたとえですが、原発は「トイレのないマンション」であるというのが結論でしょう。これではとても豊かな社会は実現しません。

 次回は原発に頼らないでエネルギーを確保し、経済性か豊かな社会を構築するにはどのような戦略を取ればよいかささやかながら、私の考えをお話したいと思います。
 
 どうもお疲れさまでした。今回は分けてお読みいただくより、一気にお読みいただいた方が理解しやすいと思い長文になってしまいました。申し訳ありません。次の写真を観てカッカした頭を休めてください。 

オオルリ
私の友人土岐至孝氏が高崎市倉渕町で撮影したオオルリ
天地を創造された神様の技の素晴らしさがこの愛くるしく美しい
小鳥に見られると仰っています。

Recsat Hiromu



2011年07月
  1. 日本のエネルギー問題を考える(2)(07/29)
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